書評は書かない

2015年9月14日

フリートーク

t f B! P L


母屋のホームページでは読んだ本の感想を書いている。
あくまで読書感想文だ。
書評なんてものは書かない。

そもそも両者の違いはどこにあるのか。
書評は客観性を帯びた評価で、感想は一個人が読書を通じて得た感情などを書くものという感じになるのだろうか。
思うに、書評のこの「客観性」が曲者だ。

客観性というのは、いわば一般性とも読み替えられる。
従って客観的評価というのは、一般的に通じる評価、すなわち普遍的な評価だと言っているのと同じことだ。

そんなバカなことがあってたまるか。
そもそも「客観」という言葉からしてあやしいではないか。
そう判断するのはいったい誰なのか。

書いた人間だけが「客観的」だと思い込んでいる場合はどうなるのだ。
もし書いた人間だけが「客観的」だと思っている場合、それは書評とは言えない。
なおかつ読書感想というのも当てはまらないかもしれない。
何より書いた本人が読書感想だと認めないのではないか。
書評なんて書いてる人間なんてみんな、自分は高尚な人間だと主張したいだけなのだ。

次に気に入らない点は、一般的に通じるであろうだとか普遍的評価だという傲慢さが鼻持ちならない。
書き手の価値観を押し付けてくるかのような感じがして我慢がならない。
自分は偉い、自分の読み方は正しい、だからこの本の価値や意味はこうである。
私が言うのだから間違いない。
始終そんな感じである。

お前は神か。

自分の視点は他の連中とは違ってずっと高い位置にある。
自分は特別なんだ。
そうだとすれば、お前の下す評価ってもう客観的じゃないじゃん。
一般的でも普遍的でもないじゃん。
お前しかわからねえんだからさ。

感想文でよいではないか。
感想文の書き手が一般に通じる感性の持ち主、普遍的な視点の持ち主であれば、その感想は多くの共感や気付きを与え得る。

それでいいではないか。
みんながみんな思うこと、考えそうなことを書くなんて詰まらないと思うかどうかは、それこそその人の価値観だろう。

思ったこと、考えたことを上手く言葉という形にできない人だっている。
そういう人に、感じたことや考えたことを書き手なりの言葉を使って表現することで、「それそれ、そんな感じ」と思ってもらう。
そういう作業の方が余程意味があるのではないのか。

誰かのもやもやとした気持ちを、言葉を当て嵌めてやることですっきりさせる。
それこそが「言の葉」の使い手の技なのではないのか。
また他の人が気付かなった点、思いもよらない感想を挙げることで、気付きや新たな読み方だって促すことができる。

それこそ視野を広く持つだとか、他人の立場に立ってものを考えるということの実践なんじゃないのか。

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